脳性麻痺の障害者との交流記
イラスト集

0 はじめに
1
2 出会い
3 会社の中
4 JTさん入社
5 町に出る
6 レストランへ行く
7 初めて車椅子を押す
  県庁へ行く
8 車椅子に乗ってみる
9 長距離ドライブ
10 ホテルに泊まる
11 電車に乗れない
13 インターネットと福祉
14 養護学校の見学
15 養護学校で講演
16 JTさんの障害の話
18 自動車教習所へ行く
18-0 手動式の車を運転する
18-1 町で見かけた車
19 盲導犬に出会う
22 運動会
23 雨の中レストランへ
24 ギロチン事件
25 災害避難訓練
26 幕張免許センター
27 葛西臨海公園
28 再び車椅子に乗る
29 電車に乗る(前編)
30 電車に乗る(後編)
30-1 鉄道会社の社員の声
31 蔵王のオカマ
32 買い物をする
33 リハビリへ行く
34 薬局での出来事
35 プールへ行こう
36 車椅子でハイキング
 (どうぶつ王国)
38 ふらっと東京湾巡り
39 車椅子の特訓
40 車椅子階段を昇る1
41 車椅子階段を昇る2
42 もしゆきが降ったら
43 東海道新幹線(1)
44 東海道新幹線(2)
45 踏切は恐い
46 野田市の福祉カー

考察
1 再びJTさんの障害の話
2 手を貸す勇気と貸さない勇気
3 リハビリについて考える
4 ハートビル法
レポート
ハワイ車椅子事情
ロサンゼルスレポート1
ロサンゼルスレポート2
ロサンゼルスレポート3

後書き
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JTさん養護学校で講演をする

さてJTさんの講演は母親達の前で行われ、JTが生まれた時から現在までの話で最後に就職の話で締めくくられていました。きっと自らの事を人前で話すのは勇気が必要であったことでしょう。

以下はJTさんの生い立ちから現在までを語った講演の原稿です
1:出産2:母子入園3:再入院4:小学校
5:普通学級へ6:勉強7:また入院8:イジメ
9:手まで動かない10:桜が丘養護学校11:障害者高等技術専門校12:就職
13:自宅療養14:車の免許15:再就職16:現在
母の体内にいるときから計算不足の私は2ヶ月早く1450グラムの未熟児で生まれました。
1歳の時

3歳の時に障害者手帳を頂き一種一級と印されました。その頃、母の友人でお習字の先生がおりました。その方から「どう、Jちゃんお習字を習わせてみたら」と言われましたが母は、「それどころじゃない!学校へ上がるまでには歩かせたい」と、足のことで一杯だったそうです。しかし「そういう子供こそやらせるべきよ」そういう子供こそと言われたときはとても苦しかったそうですが、後でよく考えてみたらありがたい言葉だったと思ったそうです。

東京・板橋にある障害者医療総合療育センターへ母と子供が一緒になって入園し日常の生活訓練を覚えるところで、4ヶ月お世話になり退園後、設立して間もないあさひ育成園へ通い、本格的に手に筆を持ち始めたのは5歳の時でした。

3歳の頃

私が思ってもない筆体を書いたので母は、ビックリしたそうですが、常に脳裏では私の足のことばかり、気が遠くなるほど病院を訪ねこれは良いというものはすべてかけずり回ったそうです。病院の世界しか知らなかった私は、美容院へ行った時、白衣姿を見てはおびえ泣き、引き出しから何かを取り出そうとしているもので有れば、お注射かと思いサイレンのように泣き、母は大変困ったそうです。

就学期を迎えまだ歩くことが出来なかった私は杖で歩けるようになるため、依然お世話になった療育センターへ家を離れ1年間入院する事になりました。その前夜に「おじいちゃん、おばあちゃん、私は訓練しながら通える東京の学校へ行きます。良くなって帰るのだから心配しないでください。そして、おじいちゃん、おばあちゃん、家のことみんな忘れて東京の子になります。体を大切にしてください。」と、声をうわずらせ障子のかげで言ったことを今でも覚えています。

1年で歩けるようになったために地元の小学校へ上がろうとしたとき教育委員会から「こういう子はこういう子の学校があります。ここは普通校であるから2本杖で歩かれると普通の子がけがをしますから」と、いう時代でした。
しかし、特殊学級でしたらトイレも洋式で手すり付きですし、人数も少人数ですから、という事でしたが、小学校4年の時に学校側が理解を示してくださり、普通学級へ入ることができました。この時は自分自身の障害に対して認めたくはなく、同世代の子がTVで騒いでいる姿を見ては良く消して魔法の杖が有るならば皆の足を悪くしてしまいたい。そうすれば私の気持ちも判ってもらえるのではないか、と良く口にしていました。
小学校5年生になり担任の先生が放課後、勉強を夜遅くまで教えてくださり学校内を懐中電灯点けながら帰った覚えがあります。

小学6年生になり足に炎症をきたし、痛み止めの注射をしていましたが、主治医から、もう手術の段階だと言われ半年間入院しました。

足にを炎症をきたしていた 足にを炎症をきたしていた

今までは母の送迎でしたが中学になり自転車通学に挑戦しましたが長続きせず足の筋がつってしまい、教室も3階でしたが2階にしていただき階段の時は母が私を背負う姿に見かねて他の先生が背負ってくださるときもありました。それ以外の移動は市から車椅子を借りて移動していました。この年はちょうど国際障害者年スタートしたときで、福祉標語募集という文字が目に止まり浮かんだ言葉が“障害の僕も私も挑戦者”が生まれ今でも文化会館駐車場に三角表示板となって訴えています。

3歳の頃

進路の時期に入って欠席、早退が多くなりました。そんな中でいつの間にか私はイジメの対象となっていたのです。担任の先生に対して生徒が給食の中に下剤を入れてしまったり、授業を妨害してみたり、私が先生と何か話をしていると告げ口しているのではないか、ある時はクラスメイトが私の荷物を持ってくれたりするとその子がいじめられたりと私の心はだんだんと閉ざされていきました。
あの頃の私は非常に体が弱く欠席、早退を繰り返していました。欠席日数は三年間で1/3にも達していました。そのためか、常に友達達に無視される日々がつずいていました。あれは国語の授業中のことでした。突然咳きの発作に教われ、咳込んで込み続けている私をほとんどののクラスメイトが冷笑を浮かべて眺めていました。私はひとりで保健室に向かいました。発作がおさまるのを待っていると、数人の女の子が泣きながら入ってきました。

「今までいやがらせをしたり、文句をいったりしてゴメンね」と、言ったのです。国語の先生が私の障害や体調のことを詳しくお話してくださったのだそうです。
私はとまどいながらも、その一言が嬉しくて涙が止まりませんでした。私は、「わたしは別に気にしていないよ。社会に出たらこれ以上の荒波が待っているのだから、そんなに自分を責めないで。」と、言いました。
しかしそれを伝え聞いた国語の先生が私を叱りました。「言葉を飾り立てるな。本当にきにしていなかったのか。悲しいことは悲しいと自分の気持ちを素直にはっきりいうんだ。」先生はさらにいいました。「一人で持てない荷物を意地を張って持とうとするな。友達に頼んだらいい。もっと自分に素直になれ」

その時の私は素直になれと言われても素直になることは出来ませんでした。
私の頭の中には、「人に迷惑をかけてはいけない」という考えが常にあったのです。しかし「迷惑をかけたくない」は私の中では動議の問題ではなく、むしろ肩をはったプライドの問題だったのです。先生の言葉の真意が理解できませんでした。無意識のうちに、障害者という現実の姿を正面から見つめることを避けていたのかも知れません。

そんな環境の中、心理的に手が動かなくなってしまいました。母が手が駄目なら口があるじゃないのと言い、口にボールペンをくわえ文字を書く練習をし、テストの時などは保健室で肩を氷で冷やしながらという有様でした。思うように動かない足、動かなくなってしまった手…・・。

私の心の支えになっていたものは、普通高校受験ただそれだけでした。しかし、現実という冷たい風にあおられて、やりきれない気持ちと安らぎの場を見失っているとき、母が体が弱かった私を見て言いました。「養護学校へ行って体力を付けた方がよいのではないか」と…・。私は「今までの苦労はいったい何だったの」とつぶれたそうな声で母に怒鳴ったのです。母は「養護学校へ入ったからと行って人生終わりではないのだから」と言ったのですが、私は納得がいかず家庭内暴力を起こし、ついには生きることさえ疲れ刃物を持ち出して手首を切ろうとしました。それを見ていた母は、「それこそ水の泡じゃないの。死のうという気持ちが有れば何だって出来るはずよ」と言われ二人して大泣きしました。母の涙はこたえました

気持ちが晴れないまま千葉市にある桜が丘へ見学した時でした。生徒一人一人見ても瞳を輝かせ普通学校にはない人として心の温かさ、そして自分の障害を恥じるどころか残された機能を生かしている姿に、死のうとした自分が恥ずかしくなりました。ちょうどお昼時になってしまい、校長先生はじめ先生方を交えて給食を出してくださいました。その時校長先生が「あなたは必ず人のお役に立てる方です。一生悔いの無いようにおやりなさい」と、暗示をかけてくださり、“あ、ここだったら”という思いで入学しました。三年間寮生活、学校、リハビリに励み今まで閉ざされていた心に少しずつ光が射し、手・足が動くようになりました。三年間で学んだことは「命の尊さと、強く生きるという事は飾らず自分を見つめる勇気を持ち優しさを積み重ねていくこと」という事でした。

養護学校時代/ディズニーランドにて

桜が丘卒業後、県立障害者高等技術専門校洋裁科へ進み、また一年寮生活を送りました。母も洋裁をしておりますが、自分が学んでみて母の大変さを身にしみました。

修了製品としてスーツを縫い上げることが出来、一生の宝物だと思っております。いまだに私が制作したものかと、母は私に問いかけてきます。

修了後は扇屋ジャスコへ入社。制服の試着会がありました。会場に来る人が全体に、大きく見え賑やかな雰囲気に圧倒されていました。高卒と大卒と別れており、気が焦っていた私は高卒の方へエレベーターから降りてしまいました。すると教育担当の方が「JTさんこちらですよ」と声を掛けてくださり、人混みをかき分けながらエレベーターに駆け込みました。高卒の女の子達が「エーあの子大卒に行くよ」と、不思議そうに見ていました。エレベーターは上へ上へと上がって行きます。「ピンポーン」と音が鳴り扉が開きました。大卒へ足を踏み入れた途端、何とも言えない空気が漂っていたのです。私はこの人達と一緒にお仕事していくのは場違いだと思ったほどでした。私はこの時今まで四年間寮生活で外へは出ていましたが私が見ていたのは、ほんの一部で自分の足元くらいしか見ていなかったことに気が付かされたのです。心臓が張り裂けそうな私にある男性が「JTさん、私達と一緒にかんばりましょうね」と、にこやかに声を掛けてくれたときは、どんなに救われたことか判りません。学生服から社会人としての制服を着用してスタートしました。一週間の宿泊研修がありました。朝6時、マラソンをして九十九里海岸に向かって発声練習を行い、9時には接客マナー、お辞儀の角度、計算機を片手に商業簿記講座、夜9時過ぎまでセミナーがあり、その後も、みんな寝ることも惜しんで勉強していたせいか翌朝男女問わず、目の下にくまが出来ていました。そんな時は良く「ある日、森の中くまさんに出会った」森のくまさんを皆して歌いました。研修も後半にさしかかり気が付くと制服のズボンがブカブカでした。周囲から「JTさん何かチャップリンのようだね。」とか、「杖の音がするとJTさんだと判るようになった」など、厳しい研修にも笑いがあり無事に配属辞令を頂き、ノア店総務会計と辞じられました。

扇屋ジャスコ時代

ベテランパートさん6人、社員1人でした。学校の先生方にも「おまえは間違ってもお金関係には行くな」と言われておりました。自分も恐れていたものに合ってしまったのでとても気がかりでなりませんでしたが、月日のたつにつれてどうにか会計の仕事にも慣れて来た頃、総務課長から「体にハンディーを持っているからと言って特別扱いしません。総務の人間としてすべてこなせるように」と、いう厳しい注文に喜ぶべきか悲しむべきか複雑な思いでした。人事をはじめ、売場からレジがおかしいと言われればパートさんと売場に出向き、毎日の業務がフル回転でお昼が夜食と一緒という日が多く、自宅へは9時過ぎにもう寝るだけの日々もありました。同僚はじめ色々な方から「おはよう」と言われれば笑顔で「おはよう」と言える自分にまだがんばれると言い聞かせ「総務課に来ると、職員室のようでとても緊張するけれど、JTちゃんの顔をみるとホッとする」などと言われてしまうと、「あ!本当に私は仕事できないけれどこんな顔でホッとするのだったらいつでも訪ねてきてね」と、振る舞っていました。

この頃からちょっと腰が重いと感じ始めていました。ジャスコの規定では車椅子不可能という事もあり、腰にコルセットをしながら仕事をしていましたが、主治医から安静が必要だと言われ家族と話し合いまた会社の上司にも相談した結果、一年間休職し、リハビリと治療に専念することになりました。一年間なんてあっという間です。病院へ通院しあっという間に6ヶ月たってしまいました。整形の先生に私の腰の炎症はどうなっているのかと思わず口にしてしまいました。先生は「これは長くなるよ。今の仕事を続けるので有れば車椅子と杖の両立です。気持ちは判るが、そんなに焦ってはいけない」と、言われました。この6ヶ月何が変わったと言えば車椅子を使うことが多くなった事と、立って歩いている人がとてもキリンのように長く大きく見えたことでした。

何をしていなくても時間はたっていきます。ふと頭の中に、前から願っていた車の免許がよぎりました。職場に戻る事が出来たとしてもチャンスは今しかない!と、思い、幕張の免許センターへ出向きました。判定を受ける前から私は改造しなくては難しいかもしれないとばかり考えていました。判定の方が「思ったより足首の動きもあるし、アクセル、ブレーキの力のいれ具合も大丈夫の様だから、普通のオートマで頑張ってみなさい」と、言われた時は、自分自身でも驚きと新たに自分の足について再発見したような感じでした。野田自動車教習所へ腰に痛み止めをしながら6ヶ月、夢だとあきらめていた車の免許を手にする事が出来ました。ジャスコはやはり仕事上、車椅子の使用が難しく体のことも考え温かく見守ってくださった職場を6年2ヶ月で退職しました。

退職後、職業安定所へ出向いたところ車椅子マークの駐車場はあったものの、中に入った瞬間視線が私に集中していました。私って「アイドル」初めはそんな感じでした。回数を重ねていくうちに職安の方とお友達になりましたが、車椅子での就職先はなかなか見つからず、周囲の方から「もう会社はコリゴリでしょう」と、言われましたが、「いいえ!まだまだ」と、強気で言ったものの車椅子での就職はやはり、ゼロに近いものなのだと痛感させられました。そんな時ある方がお声を掛けてくださり現在の会社のお話を頂き、総務課長さんに「通院しながらでもよろしいのでしょうか」「車椅子ですがよろしいのですか」と、お話ししたところ快く引き受けてくださり、仕事の内容はパソコンと言われ、大いに悩みました。しかし、幸運にも親切に教えてくださる先生方が多く、今日、見えている上野さんもそのお一人です。車椅子のためにスロープ、専用駐車場、自動ドア、室内専用車椅子も作っていただき、周囲から早くパソコン覚えて先生になってくださいなどと言われるなど、早いもので1年過ぎました。本当に周囲の方々に感謝しております。車通勤しておりますが、毎朝「あ!遅刻しちゃう」と騒ぎながら我が家は運動会のようです。お陰様で腰の方も良い方向へ少しずつですが、向かっております。

四季が変わっていくように、私を支えている多くの方が形を変えて応援してくださっていることにあらためて、失ったものよりも何かを得られたことの方が多かったように思えます。

今までの思い出を胸に抱きしめて、肩の力を抜いて歩んでいきたいと思います。

大きな空に私なりのメロディーが描かれるまで。

最後に会食しながら質疑応答の場面ではやはり就職の話に話題が集中しました。JTさんは小学校と中学校は普通クラス、そして養護学校、職業訓練校と進み大手スーパーへの就職、そして現在の職場とへと集まった親たちからするとエリートコースを歩んできた来たJTさんの話は励みにも成り、現状の嘆きにも成ったようです。

何故が私までが会食の席で正面のJTさんの横に座らされて、食事の後に自己紹介させられました。私の会社での仕事の紹介、JTさんとの出会いから今までの体験したこと、そしていつものインターネットと福祉の関係について考えを述べましたが、お集まりいただいた方々にはインターネットについての話は難しすぎたかも知れません。

それどころか、行政が作業所建設には否定的な見解であることや、私が勤めている会社が障害者雇用に対して前向きで無い事など、切実な意見が出され、私が会社代表として何か言わなければならないような雰囲気になってしまいまい、とっさに自分は総務でも人事でもなく、何も申し上げられないと逃げてしまいました。

そして私にはもう1つ大きな発見がありました。出産から母親の苦労、そして自分自身の中学校時代の苦労話の時にはJTさんが涙声になって言葉に詰まっていました。。いつもは私のぶしつけな質問に対しても笑顔で淡々と答えてくれるJTさんの違った側面を見た思いです。